通院の後、都立中央図書館にまわって、東京市史稿 上水篇の一部ページのコピーをもらってきました。
東京市史稿 上水篇については、都立図書館のサイトを用もないのに彷徨っている時に気付きました。
東京市史稿は東京に関する歴史資料を東京市→東京都がまとめているもので、膨大かつ貴重であり、様々な分野に渡っていて、しかもまだ未完であるようです。
このうち上水編は4冊あり、上記サイトの目次があったので調べてみました。
内容は、様々な資料に記述された情報をまとめて年代順に収録しているようで、複数の資料を横断的に見ることができます。その点で、かなりお得感があります。
というわけで、調べてみたところ上水編4冊で高井戸を含む項目は以下の1つだけでした。
東京市史稿 上水篇第2
高井戸代々木一部上水敷地編入 上水2-0831 1883(明治16)年4月7日 (注: サイトでは代々木の々が-に置き換わっているように見える)
しかし、これだけではないだろうと更に下高井土分水ができた安永四年を調べてみると(年代順なので調べやすい)、以下の資料があることが分かりました。
東京市史稿 上水篇第1
安永四年分水 上水1-569 1775(安永4)年
おそらく、これが下高井土分水についての記述だろうとあたりをつけました。
更に、万治元年の上北沢分水についての項目もあることを確認。
東京市史稿 上水篇第1
上北沢分水 上水1-202 1658(万治元)年
というわけで現物を調べた結果は……。
安永四年分水 §
まさに下高井土分水のことでした。しかし、わずか5行。中身は上水記の抄のみ。実質的に意味のある情報は以下の1行だけ。
安永四未年七月、久松筑前守勤役之節願済。
これなら上水記を直接あたった方が良かったかも……と思っても後の祭。
高井戸代々木一部上水敷地編入 §
前に何かの本で読んだことがある話題です。「上下高井戸村・代々木村」について「官林社地ノ一部ヲ上水敷地ニ編入ス」と書かれていますが、明治16年の話であり、現在の興味対象とはあまり接点がありません。
上北沢分水 §
ひるがえってこちらを見ると、「新編武蔵風土記稿」「郡村誌」「武蔵通志」と充実した資料の数々が列挙されています。特に「郡村誌」の記述の充実ぶりが泣かせます。水質は悪かった(玉川上水の水の他に悪水が流入するから)といった記述は、具体的に状況がイメージしやすくナイス。また2回の分水点の移動も詳しく書かれていて最初の分水点を「上北澤地内字牛窪」と記しています。
しかし、「上北澤地内」とするこの記述は悩ましいものです。これは玉川上水は上北澤を通っていた、ということなのか? それとも上北澤には流れていない玉川上水の水を「上北澤地内字牛窪」へ引いた、という記述なのか? 「長九尺ノ樋口ヲ伏セ」という記述が、接していない上北澤へ水を引いたという意味なのか? としても九尺(約3メートル?)は短すぎないか?
いずれにしても、結論を出すにはまだかなり遠く、勉強や検討を積み重ねる必要がありそうです。
以下余談 §
仮に下高井戸と上北沢の境界線が現在と同じだとすると、3メートル程度の樋で玉川上水と上北沢を連絡できる可能性がある場所は1箇所しかありません。
この位置は、「標高データと古道と水路跡から考察する玉川上水から北沢川への取水経路・これは万治元年(1658)北沢用水最初の取入口!?」で示した『文化財シリーズ26 甲州道中「高井戸宿」』(杉並区教育委員会)の下高井戸宿復元鳥瞰図(江戸後期)に記された用水抜石橋の位置のうち、最も西側のものに対応します。(玉川上水が甲州街道から北つまり三鷹方面に向かって離れていく直後のあたり)
とはいえ、「3メートル程度の樋」だけで連絡したのかどうかもはっきりしません。
感想 §
たぶん、様々な書籍の著者達が前提とした資料と同じものを見ているのだな……という気がしました。(ただし、東京市史稿そのものは1次史料ではなく2次史料なので、もっと現物に肉薄している可能性はあり得ます)